ベグニオンを離れてから、早数日。  主君である神使サナキの命を受けてクリミア解放を目指す一軍に加わったとはいえ、  タニスの心中は余り穏やかではなかった。  元々クリミアの解放を目指すエリンシア王女やグレイル傭兵団に対して特に何か思うところが有った訳ではないが、  事情や理由が有るとはいえいきなり余所者の中に飛び込むというのはそれなりに覚悟を要するものだった。  タニスにはその覚悟はある。命令さえ受ければどこにだって行けると思っている。  彼女の心を乱す原因は、そんな覚悟をあっさりと吹き飛ばしてしまうような解放軍の和やかな雰囲気にあった。  自身の立場を踏まえある程度の衝突や対立を覚悟して入ってきたというのに、  この軍に元から居る者達はそんなタニスの気持ちなど露知らずといった様子だ。  調子が狂うというほどではないが、これでは肩透かしもいいところである。  無駄な衝突が無く過ごせるというのは勿論良いことだし歓迎できる所は有るが、やはりどこか釈然としない思いが残る。  しかしそんな風には思ってみても、タニスがそのことを話せる相手も居ない。  この軍に居るのはクリミアの出身者や途中で雇われた傭兵などばかりで、タニスの知り合いなど一人も居ないのだ。  こんな些細な事はその内忘れられるだろうかと思っているタニスが見知った顔に出会ったのは、ある日の午後の休憩時間のことだった。 「君は確か、ディアメル家の……」  知り合いというほどではないけれども明らかに見覚えるのある顔を見たタニスは、すれ違いかけた人物を前にして不意に呟いてしまった。 「あ、はい、ステラです。……天馬騎士団のタニス様、ですよね」  通り過ぎようとしていた人物が足を止め、すっと背筋を伸ばして一礼をした。  きちんとした礼儀作法を身につけてきたことを窺わせる、綺麗な動作だ。 「ああ、そうだ。しかし何故君がこんなところに……」  目の前の人物がゆっくりと顔を上げるのを見てから、タニスは当然の疑問を口にした。  ディアメル家といえば、帝国内でも名門貴族の一つだ。  そこの末娘であるステラが社交界に現れた光景なら、タニスも目にしたことがある。  タニス自身は貴族出身にしては社交界になど大して関心が無い方だったが、仕事や付き合いの範疇で何度か足を運んだ事ならあるのだ。  彼女が一時期騎士団に居たことが有るらしいという話ならタニスも耳にしたことが有るし、  貴族の令嬢が騎士団に入ること自体は珍しくないが、こんな傭兵ばかりが集ったようなところに居るというのは普通はありえないだろう  このクリミア解放軍は一応軍隊の形をとっているが、  元々はエリンシア王女がグレイル傭兵団と交わした個人契約から成り立っている。  そんな場所に、どうして彼女が居るのだろうか。 「あ、あの……。私、神使様達が船の上でキルヴァスに襲われたときに、同じ船の上に居たのですが……」 「……そうだったのか、気づかなかったな」  それはエリンシア達一行を迎えに行くために神使一行が船で向かった時のことだ。  当然タニスもその時は同行していたのだが、  予想外の行動に出た神使ことサナキを見つけることにばかり気を取られていて、  その時は他のことに目が向いていなかったのだろう。 「いえ、私は偶然居合わせただけですから、タニス様が気づかなくて当然です……」 「……君はそれから、アイク将軍達と一緒なのか?」 「あ、はい……」  ステラはそう言って、ぺこりと先ほどよりも浅く頭を下げた。 「ふむ……」  そんなステラを見て、タニスは僅かに眉根を寄せた。 「……あの、どうかしましたか?」  タニスの様子を不信に思ったステラが、小さく首を傾げた。 「いや、君が以前と少し変わった気がしてな」  今まで直接話した事すらない相手に対していきなりこんなことを言うのはどうだろうかと一瞬思ったタニスだったが、  嘘を吐くことも誤魔化すことも苦手だったので、結局は率直に思ったことを口にした。  この間、僅か一呼吸分の時間が有るか無いか。  こんな風にあっさりと行動を決めてしまうから、端から見るとタニスが迷っていたことになんて誰も気づかないのだ。 「……そうですか?」  勿論ステラもタニスの迷いになど気づかず、ただタニスの言葉に対して反応を示しただけだった。  無遠慮とも思える問いかけに対して、ステラが不快感を抱いた様子は無い。 「ああ、以前の君は……、そうだな、もっと虚ろに見えた」 「……え?」  余りにも直線的なタニスの発言に対して、ステラが一瞬目を丸くする。 「すまないな、いきなりこんな事を言ってしまって」 「あ、いえ、良いんです……。気になさらないでください。  そう、ですね……。前の私は、あんまり、何事に対しても積極的では無かったですから……」 「今は少し違うようだな」 「はい……、少し、ですけど……、前より、前向きになれた気がするんです。  あの、ここで……ここの人達に会えて、自分の知らなかった世界を少しだけ知ることが出来て、  とは言っても、まだ全然ですけど……、でも、それで、私……、  少しですけど、勇気が持てる気がしたんです」 「……そうか、それは良いことだな」  ゆっくりと語るステラの様子を見たタニスは、ふと頬を緩めた。  この解放軍に入って日の浅いタニスでは有るが、  ここが貴族社会で育った令嬢にとっては異質な空間であるということくらいは何となく分かっていた。  そんな場所に入っていったステラの事情も気持ちも理解しきれないタニスだったが、  少なくとも彼女が前向きな形で現実に向かい合っているということだけは理解できた。  後ろ向きだったお嬢様の顔を上げさせたのが一体誰かは分からないが、その誰かはきっとこの解放軍の中に居るのだろう。  或いはそれは『誰か』ではなく、この軍の空気を指すのだろうか。  だとしたら、それはきっと自分にとっても歓迎すべきことに繋がるのだろうとタニスは思った。  自分とステラでは全然事情が違うということは分かっているけれども、下を向いていたお嬢様の顔を上げさせた何かが有る場所なら、  自分にとっても何か良い転機が待っている可能性も高いのだろう。  単純にして明快な論理でもって他者の幸せを感じ取れる今のタニスは、とても幸せ者だった。